ワインにおけるグローバリゼーションのお話。グローバリゼーションっつーのは、世界レベルでのモノや考えの均質化・均一化を表すものでもあろう。それがワインからテロワール(地味)を奪ってしまった、と作者は憤怒するわけだね。そーゆーお話。
グローバリゼーションという概念のもとでは、国境を越えてモノが行き来するので、モノのサプライヤーは概ね物価の安い新興国側になるのが通例。だから、先進国の生産者はその脅威に常にさらされてしまう、という構図を生み出す。
ワインの業界でもそうだ、ということを作者は例示している。後進のアメリカのワイン生産者が市場を拡大するためには、フランスを筆頭とするワイン先進国の伝統を覆す(その価値を貶める)必要があった。それがロバート・パーカーに代表されるワイン批評家の役割となった。彼に評価されないと売り上げが伸びない、そのような構図を、年月を経て作り上げた。そして、もう一人、彼と手を組んだのはワイン醸造家のミシェル・ロラン。彼の勧める醸造法を採用した生産者のワインをパーカーがメディアで絶賛する。逆に、そうではない生産者のワインは酷評する。さすれば、売り上げに劇的な差違をもたらす。すると、売り上げの伸びない生産者は、たとえその地がボルドーであれブルゴーニュであれ、ロランに指導を求める。このようにして、彼らはワインの均質化を敷衍させることで伝統の壁を取り除き、その市場をアメリカの外へ拡大することに成功した。グローバル・スタンダードという名を与えてアメリカン・スタンダードを押しつける彼らのいつものパターンである。これを彼らは「民主主義」と呼ぶわけさ。
世界のどこでも同じオークの新樽を用い、バニラエッセンスで香りを付与し、染料で色濃いワインを作り上げる。最近はボルドーであっても熟成期間を要しない早飲みワインが主流になった。これも均質化である。そこにはテロワールは存在しない。そこを作者は嘆いている。それは理解するし、寂しいことだとは思う。
一方、グローバリゼーションによってテロワールが損なわれるパターンはさまざまな業界でも見ることが出来よう。たとえば、僕が関わった木造住宅の世界なんかでも、構造材はカナダ産、化粧材はパイン等の白木や東南アジア産の堅木なんかが好まれる。国産材では桧や杉なんかが採れるんだけど、一般のユーザーには採用されない。原因として西欧、北欧のスタイルが好まれるからってトコもある。まあこれも価値観の均質化がもたらすものでもあるんだけど、コスト面からというトコも大きい。原材料の価格が違う上に、新潟から東京にトラックで運ぶより、カリフォルニアから東京にタンカーで運んだ方が流通コスト安いんだもの。トータルコストではいわずもがな、である。
そう、問題はコストなんだ。テロワールを重視すると、そこには生産者の生活水準に近いだけのトータルコストが与えられる。それを許容するかどうか、できるかどうか、の話なんだろう。先日、ロバート・モンダヴィのデイリーワインを飲んだ。一本880円のデイリーワインとしては十分楽しめる味だった。一定水準をクリアして価格も安いのであれば、それはたちまち世界を席巻するだろう。「世界の工場」として劇的に経済成長を遂げている中国も、生産技術を有している先進諸国と手を組んだからこそ、その成長が成り立っているわけで、その存在は僕らの生活を確実に助けている。グローバリゼーションそのものを否定しても仕方ない。テロワールを大事にしたワインはたとえ美味しくても一本で一万円もしてしまっては、週に2,3本飲む僕には手が出ないよね、たとえ美味しくても。たとえ、そこに生産者の矜持が内包されていたとしても。
ただ、こういった考え方でテロワールを否定してしまうはあまりにも味気ないし、あまりに寂しい。レクサスとオリーブの木、って区別されるもの、そのどちらを選択するかと問われれば、結局僕はレクサスを選ぶんだろう。で、どちらが嗜好にあうか、と問われれば、オリーブの木なんだろう。グローバリゼーション、と聞くと、いつも嫌な気分になる。けれども、自分の生活そのものは全身でその恩恵に浴している。しかしながら、同時にお金に支配される生き方には抵抗を覚えるのは人間の性。誰しも譲れない自分のテロワールであったりオリーブの木であったりを有していたい…そういう願望はあってしかるべきだし、それを堅持するべきだろう。そういう意味でも、経済的価値の外にあるものに触れるように意識して行動しようか、とか改めて考えた。たまに飲む高いワインは、雑誌の評価が高いものではなくて、テロワールを重視した頑固親父の作ったものにするとかね。
とりあえず、この作品に出てきた詩人のようにワインを作る醸造家・エメ・ギベールの作ったデイリーワイン「フィガロ」あたりの手頃なトコから試してみるか。グローバリゼーションの味がしたらどうしよう…まあ大いにあり得ることなんだけど。